知識社会とは

 これまでにも21世紀が「知識社会」になることを予見してきた識者は多い。ピーター・ドラッカーは「ポスト資本主義社会」(1993)において知識だけが意味ある資源だと論じ、ダニエル・ベルは「知識社会の衝撃」(1995)で、知識と情報が社会変革の戦略資源となると述べている。これらはいずれも知識を資産として捉え、工業化社会における資本や労働以上に、今後の社会における知識の重要性に関して述べている。

 ここで、これまでの研究から情報と知識社会のありかたについて3点挙げておこう。


 第1に、知識社会とはこれまでの工業社会からのパラダイムの変換であり、こうした社会において創造されるべきは、専門的知識すなわち伝達しにくい情報を必要とする知識といえる。今後先進国では高付加価値のモノやサービスを提供していく必要があり、その源泉となるのは、原材料などのモノではなく知識となる。そして、このような高付加価値のモノやサービスを生み出すための知識とは、様々な分野における専門家つまり特定の分野に関する共通のコンテクストをもった個人によって創造される知識である。

 これをITの普及との関連から考えてみると、ネットワークを流れているのは、デジタル信号というそれ自体何の意味もないデータである。このデータは様々な理由により作成され、ネットワークを通じてPC等の機械に大量に蓄積される。蓄積されたデータは必要に応じて様々なハードウエアやソフトウェアを利用することで、の意味をつけられ情報に変換される。人間はこうして得た情報を目的に応じて体系化、統合して自らの知識に変換・蓄積する。そして、企業はこれらの知識をもつ個人を有効に活用することで、知的資本を蓄積して競争力を増加することになる。逆に、個人のもつ情報はPC 等を通じてデータに変換され、ネットワークを通じて流通する。

 近年のITとインターネットの急速な発展は、デジタル信号というデータに意味をもたせることを容易にして情報を大量生産すると共に、情報をデータに変換し、大量に流通させることを可能にしている。また、一度創造されたデジタルデータは、複製が可能であり、老朽化や消滅することはない。

 ドラッカーは1993年に、「今日知識とされているものは、必然的に高度に専門化された知識である。 」と既に述べているが、先進国において必要とされる知識は専門的知識に既に移行しつつあり、今後もこうした傾向が加速することは明らかだと思われる。逆に考えると、知識創造会において、簡単に手に入る情報に基づく知識は価値を失っていくと考えられる。



 第2に、知識は究極的には個人にしか帰属しないものであるため、より多様な個人がデータや情報を交換することで、それぞれの知識を増幅させていくことが重要であるということである。しかし、IT やインターネットを駆使して創造され、交換され、蓄積されるのはデータと情報だけであり、こうした現象だけでは知識の創造は起こらない。知識社会において求められる専門的知識を創造するためには、必要な情報を効果的に獲得できることが重要であり、そのためには文脈的情報のもつコンテクストを共有している個人間の情報交換が鍵となる。そして、必要な情報の専門性が上がり、それにつれて共有しなければならないコンテクストの度合が高度化されるにつれ、このような情報交換を行うことは困難になる。

 現在、ネットワークを流通する情報を検索するための技術も日々進歩しているため、情報を得るための条件は飛躍的に向上していると考えられるが、依然として必要な時に情報を得るのは困難だといえよう。このように考えると、最近まで語られていた情報化社会とは、ネットワークを通じて様々な情報を容易に得ることが可能になった社会であり、IT の発展だけで実現可能となる。しかし、ネットワークを活用して知識社会を実現するためには、高度なコンテクストを共有できる個人間の情報交換が行われることが前提であり、IT の発展だけで実現することは困難である。

 もちろん、個人の知識創造が促されることで、結果的に企業の知的資本が増加することは充分にありえるが、このこと自体が知識社会の帰結や目的ではない。重要なのは社会全体として、より多くの個人が様々な知識を創造していくような社会を実現することであろう。



 第3に 組織が資本として確保すべき個人の知識は、同じものを複数持つ必要はない。そのため、同一の知識をもつ知識労働を複数組織内におく必要性は低い。組織の事業を推進するために必要な異なる知識をもつ知識労働者が集まるからこそ、資本としての価値がある。同一の知識を同レベルでもつ労働者が集まることにより、均一な製品を作り出すことが企業の価値であった工業化社会とは求められる労働者像は異なる。

 組織のビジョン、価値観を共有しながら、一人一人異なる知識を持った労働者が求められる。異なった知識の総和が組織の資本となり、企業は事業活動を行うことができる。また、異なる知識の触れ合いは新しい知識を生み出し、新しい資本となることにより資本が増強され事業が拡大する。

 このように、明確な組織のビジョンや価値観を共有し異なる知識を持った知識労働者が必要とする情報や知識は、個人個人により異なる可能性が高い。
 したがって、必要とする知識を組織内ですべてまかなうことが難しくなる。現代においても、ネットワークを活用して個人の仕事に必要な情報を収集している労働者はすでに多い。知識資本主義社会においては、さらにこの傾向が高まり、ンターネット上で公開されている情報・知識と組織内情報・知識だけでは、知識労働者が必要とするすべての情報・知識を入手することができず、個人ごとに異なる情報リソースを必要とする時代となる。

 組織の枠を超えた人的ネットワークやコミュニティにより得られる情報や知識だけではなく、個人や組織で所有する範囲を超えた大きな情報処理資源、データベースやナレッジベースを個人でネットワーク上に所有することも考えられる。

 自前主義により、すべてを自社内で行おうとする工業化社会では、企業内で発生する情報を迅速に共有化し、情報の統合、ビジネスプロセスの統合を図り、企業内全体最適化を実現することが、あるべき姿であった。

 しかし、知識資本主義社会になると異なる知識をもつ知識労働者とのコラボレーションが企業活動の中心となり、企業内の知識労働者という限りのある資源だけでは足りず、自社でまかなえない部分を、外部のサプライヤーから得る必要がある。自社のコアコンピタンスとしての知識と異なる知識をコアコンピタンスとするサプライヤーとの協業が不可欠な時代となり、これを支えるネットワークは、企業内中心のネットワークから、外部とのネットワークに重心を移すことになる。



 以上のことから考えると、我が国が今後目指すべき知識社会とは、様々な分野の専門家が所属している企業や地域といった枠組みを超え、それぞれの専門分野の知識を高度化させやすいような社会であるべきといえよう。本論では、「組織という枠組みを超えて、より多くの情報やデータが交換され、その結果個人の専門的知識が互いに増幅するような社会」を知識社会と定義する。